市民の声から生まれた畿央地域

1999年09月12日

by OUTSIDE

ホーム > 畿央への提言 >

畿央地域が他の首都機能移転候補地と根本的に違うところは、市民の声から生まれたということです。他の候補地は行政が名乗りを上げ誘致運動を始めているのに対し、畿央地域は市民の声から生まれたのであるという経緯があります。

畿央というのは、新しい言葉であり、辞書はもちろん地図にも載っていません。畿央という言葉はどのようにして生まれ、成長してきたのでしょうか。

今からおよそ10年前、ちょうど第2次遷都ブームの頃でした。現在近畿日本鉄道代表取締役で関西経営者協会顧問である金森茂一郎氏は、東京からの出張の帰り、早朝の飛行機から窓下を眺めていました。飛行機が大阪に近付くと、広く緑の開けている所が目に入ってきて、ここが首都機能移転先にふさわしいのではないかと考えていました。

同じ頃、奈良県に住む弁護士の前原仁幸氏は、かねてから司法機能を刷新しなければいけないと考えていました。そのためには、アジアの中心となる法文化都市を作り、司法機能を移転しなければならないと考えてました。

金森氏と前原氏は朝の通勤電車の中でいつも一緒になり、ある日首都機能移転の話題になりました。話をしていると、2人とも首都機能移転先に意中の場所があることが分かり、互いに発表することになりました。そのとき、2人は同じ場所を考えていたことが分かったのです。それが「伊賀高原」でした。

しかし、「伊賀高原」という言葉には、伊賀忍者など、暗いイメージを連想させます。2人は、何かいい言葉はないかと相談し、近畿の中央という意味で「畿央高原」と名付けました。ここに、「畿央」が誕生したのです。

前原氏は各方面の専門家をはじめとする若い人たちを集めて研究会を発足し、金森氏は場所を提供しました。研究会は、会社の終わった後から夜9時を過ぎるまで、何十回もの会合を重ね、研究成果を1冊の冊子にまとめました。これが「国都創造についての研究会」による提言書、「畿央高原・世界都市構想の提言」です。

この提言は国会議員の目にとまることとなり、平成9年5月、「畿央高原に首都機能を誘致する国会議員連盟」が結成されました。しかしこの頃は、行政はまだ畿央高原に無関心でした。しかし、平成10年1月、国会等移転審議会が調査対象3地域を選定し、畿央高原も「三重・畿央地域」として選定されることとなりました。

平成11年2月には、「社団法人日本青年会議所近畿地区協議会」が、企業の有志によるグループ「首都機能移転構想研究会」と共に、堺屋太一氏をはじめとする各界の専門家の寄稿を仰いで、これまでの市民活動の集大成ともいえる「今こそ日本に夢を 未来首都畿央」の本を出版しました。

現在、三重県、滋賀県、京都府、奈良県の関係4府県は、合同で「三重・畿央地域首都機能移転連絡会議」を発足させ、三重・畿央地域を一体化しての誘致活動を進めています。これは事実上、畿央高原への一本化といえます。

突如現れた「畿央」という言葉に、人々は「国会議員が推した地域である」と批判します。しかし、畿央高原は市民の声から生まれたものであることを忘れてはいけません。市民の声が国会議員や行政に取り上げられ、ここまで大きくなったのです。


畿央への提言に戻る